私は田舎そだちなので何度もかぶれたことがあります。今回も自力と根性で治しましたが、大変かゆい思いをしました。山の草木ごときに苦しめられるとは、なんと情けない。
島根県のHPによると、県内に自生するかぶれ植物は「ヤマハゼ」「ハゼノキ」「ヤマウルシ」があるそうですが、私はすべて「かぶれの木」として考えて特に区別していません。そもそも、野山の草木などに気を使っているようでは、田舎暮らしは出来ません「やぶの中でも猪突猛進あるのみ」頭から突き進む覚悟です。
ちなみに、見分け方は次の通りだそうですが、私はまったく気にしません。



前回のブログ発信から2年が過ぎ、今回のブログでは年齢相応の含蓄(がんちく)メッセージを発信したいと考えていましたが、そんなこんなで、やぶれかぶれになりましたが、最近、気がついたことをしたためてみます。
現代人の表現は分かりやすい、非常に良く分かる
誰でもパソコンを使えばビジュアルな画像動画で音も付けて、難なく言いたい事が正しくそのまま伝わる。それが面白くない。
相手に何かを考えさせる方が面白いのです。私が学生(かわいい生徒)の頃は、絵も図表も無く、色も無い、ただの活字が続く白黒の国語教科書を、意味もわからずに意味も無く、毎日読まされて「作者はなにを言いたいのでしょうか」と先生にいわれたものだった。昔の人は言葉が短いのでわかる訳がない。勝手な想像で答えを創るのであるが、これが実に楽しい。現代人は考える楽しさを忘れている。
川辺に自生する葦
頼りなく弱々しいが
ねばり強く生きている葦

言葉、表現、考えは、短いほうが良い(とくに阿須那の人間は短い)
「人間は考える葦である」とは、パスカルがブログに残した言葉らしいが、その意味をめぐって、様々ない人が、様々な解釈をして、面白いことになっている。
あるものは、「人間の考えは自然の前では、葦のように弱いものだ」と言い。あるものは、「人間は葦のように弱いものであるが、考える力を持っている」と言い、またその裏のうらを察して「人間は単に考えることができるだけで、そこに何の脈略も無く、無意味な行動を繰り広げるものだ」と解釈する人さえいる。
さらに現代に至っては、「この裏側にもっと奥深い意味が隠されている」と勝手に論じて、
裏と表を行ったり来たりしているものさえいる。じつに面白い。
なんと、空海なんぞは四国の山が何も言わないのでこれを察し、山に手紙を書いたそうである。書き終えた空海は弟子に、この手紙を届けるように言い渡したが、困ってしまった弟子は「その方の住所はどこですか、きっと返事は来ませんよ」と言ったら、「山の麓にでも置いて来い、そのときの山の風情で返事は分る」と言ったそうである。嘘か本当か分からない話であるが(たぶん嘘)、空海のクラスになれば言葉が無くても分かるらしい。
瀬戸大橋を渡って四国に入るとすぐ見える讃岐富士と呼ばれるこの山は、実に見事。
四国の山々は険しいイメージであるが、この山を見ると、心が落ち着きます。
この山を見ると、心が落ち着きます。

私は空海ほどではないが、最近、コンクリートの言いたいことが分かるような気がします。もうじき話すことが出来るようになるかもしれません。次回のブログでは、これでもかと言うぐらい硬い言葉で、カチコチに固まったコンクリートの話しを紹介できるかもしれません。
ページが余ったので、『 法の下の平等 』とは
短くて分かりにくい文章の代表が法律文章であるが、法の専門家はハッキリと明瞭な表現方法であると考えているらしい。その裏側に潜んでいる数え知れない経緯や訳には目もくれず、間違っていてもその条文が正として「法の下の平等」を築き上げようとする人たちだ。私達の仕事も、その多くは法律文章で出来ています。
ある若い法律家が私に助言してくれたことがある。「法律や規定は決して正しくない、平等でもない、だから当事者の話し合いと譲り合いが必要なのだ」と言うのであるが、法定文を盾として、迫ってくるのが法律家と政治家と役人である。
真実が正しいとは限らないこの世の中では、その背後に見え隠れする表と裏を行ったり来たりして、しばらくするとまた元に戻ったりするものである。実に面白い。
話し合っても噛み合わない、途中から前提をコロコロ変えてゆくので収拾がつかない。審議打ち切り、思考が欠如した政治論争もこれと同じたぐいであるが、現代人は忙しい。昔の人にはワビとサビ、現代人には隙と暇が必要だ。
科学技術が飛躍的に進歩して便利で豊かになっても、人間は変わらない。
画像や音と言った伝達手段がなかった昔の人は、和歌、短歌、俳句といった短い優れた文章で物事を表し、奥深く語り、後世にその情緒を残したものである。
でも今の私は川柳がとても心地良い。奥深さがなく軽くて意味がないのが良い。風刺を言ったものも多いが、次回は意味も無く、簡単でホッとする川柳でも考えたい。end